二か月ほど前、僕はロニーロナルド、又の名をザ・ベネディクト、又の名をウルトラロマンスさん、それからパット、又の名をファストパトリック、又の名をウルトラトラディションさんのお二人と、弊社縫製チームのジャグさん、卸売り担当のティモさん、YouTube担当のサブちゃんの五人と行動を共にしていました。

自転車に乗って東京を観光したり、

ブルーラグ各店を回ったり

美味しいご飯とお酒を楽しんだり。

ティモさんとジャグさんが、行き先やルートを練ってくれたおかげで、二人ともとても楽しんでいるご様子だった。
僕はというと、スキあらば「ねえ、パトリック!”YABAI”って言ってみてよ!」とか「ヘイ、ロニー。最近の日本では”オツカレッス”っていう挨拶が主流なんだぜ。」とかワケのわからん日本語教え込んでいました。(”乾杯”だけ覚えて帰ってくれた。)

他のブログでも言いましたが、お二人はMAJIで自転車が大好きでたまらん様で会話の内容は99.3%が自転車。
ブルーラグの各店を回っている時は終始デヘデヘしながらスタッフやその場にいらしたお客様のバイクを舐め回すようにご覧になっていました。

東京の3店舗を、上馬→代々木公園→幡ヶ谷の順番に回った訳ですが、各店舗にたどり着くと二人声を合わせて “Alright, time for more saddle sniffing!” (よーし、サドルをクンクンしちゃうぞー!)と意気込んでいるのがマジで面白かった。
パトリックとロニーの間では、バイクチェックのことを “Saddle Sniff=サドルの匂いを嗅ぐ”というらしい。実際はクンクンしていませんが、表現の仕方よ。(笑)

Saddle Sniffingが終わると、一通りバイクの写真をパシャパシャ。
先日のデジさんのブログでも出た話ですが、撮影したブルーラグスタッフのバイクの中で最も二人のお気に召すバイクを決めるゲームもやっていただき、その日の夜は大変楽しませていただきました。

話を聞くに、ロニーさんはそのゲームのためだけに写真を取っていたわけではなく、”とある記事”を書くための資料集めだとおっしゃっていました。お察しが言い方はもうどの記事のことかはお分かりでしょう。

そう、先日社内でも話題になったUltraromance氏によってThe Radavistにアップされたこちらのアーティクル。
ロニーさんがウルトラロマンスになるまでのエピソード、彼が僕たちブルーラグを発見してくれた経緯や、後半は我らがBOSSのインタビューをびっしりと書いてくださり、とても濃ゆい内容でした。

僕はどちらかとういうと、Radavistの存在を最近知った側の人間ですが、先輩たちが日課のように毎日チェックしている姿が印象的で、とにかく内容をしっかりと理解してほしいという想いもあり、即翻訳をして社内で使っているコミュニケーションツールに共有しましたが、せっかくならいつもブルーラグのブログを読んでくださっている方々にも読んでもらいたい!ってなわけで、ここにポイッとしておこうかと思います。

とても長いので時間がある時にぜひ読んでいただきたいのと、ロニーさんが撮ってくれた写真は本家のページで見ていただきたいので、割愛させてもらってます。

それでは。

enjoy✌️

-カーネル

実際のarticleはこちら→ https://theradavist.com/blue-lug-bike-shops/

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これはブルーラグが僕に与えた影響の話、ブルーラグの創設者とのインタビューを記した長い記事。この記事でアメリカのバイクショップをインスパイアできたら嬉しい。

 

写真は来日中に撮影したブルーラグのスタッフバイク。バイクナード向けのソフトコア・ポルノでお馴染み、Blue Lugのインスタグラムにて投稿される美しい自転車を組むアーティストたちの私物バイクを写真に収めるのは楽しかった。

 

まずは、僕が650B、レザーやキャンバスに目覚めたきっかけから話そう…。

1997年。左に見える赤い服の子は僕の妹。乗っているのはスペシャライズドのM2。
XTRアップグレードとデカールでオリジナルの車体に見せようとしていた。

-原点
2008年 コネチカット州 オールド・セイブルック、春。オフシーズン中は家族が経営する小さなアウトドアショップのパドルスポーツ部門で働いていた。西側でよく見る「アウトドア派」な人がいないこの街では、この店で働く人たちはとてもいい人たちだったけど、 yankee(変なやつ)だと思われていた。(そのお店は結局廃業してしまった)
故・スティーブン・ウォールは、その”とてもいい人たち”の一人だった。僕より倍くらいの年齢で、僕が固定ギアにカスタムしたマスタッシュバーをつけ、28cのタイヤをつけた70年代のトレックに乗って通勤しているのを見ていた。今の僕からしたら、このビルドは恥ずかしいものだけど、アウトドアヤンキーおじさんの目を止めるには十分だった。

11年ほど前の夏に撮った写真
この自転車が”カントリーフィックス”カスタムをした70年代のTREKのツーリングバイク。
この頃はバスケットにハマっていた。

 

スティーブンは全然サイクリストに見えなかった。体が大きくて、コットンとウールを身に纏ったおっちゃんだった。彼の自転車のカゴには釣り竿が巻き付けられていて、フランスのパーツやらサンツアーがナンチャラとかよく話していた。そんな彼は、時々僕を”S24O”に誘ってくれた。彼は”S24O”を誰もが知っているものだと思い込んで、誰にでもそのことを話していた。Cat 3 ロードシーズンに向けて一日20時間練習をしていた当時の僕にとって、彼が乗っている自転車は到底理解できなかった。ただ、仕事終わりに暗闇の中、ひたすら泥の上を走って練習をしていた僕は疲れ切っていた。スティーブンが、ツイード素材の服でピクニックや日帰りキャンプをする姿を見ていくうちに、少しずつそういったライフスタイルに興味が湧いてきたのだ。

(※S24O : Sub 24 hours Overnighter = 24時間以下の一泊旅行)

 

同時期にRivendellが初めて台湾製の自転車、650B Bleriotを作り始めた。その頃はQBPが扱っていたのでとても安く買えた。

スティーブンのアドバイスに影響され、Rivのウェブサイトをみては、彼らの写真のように憧れのRivendellに乗ってオークまみれの道を走りたいと夢見ていた。ツイードやウール、レザーそしてキャンバス素材が、美しいペイントが施されたラグ溶接のフレームと見事にマッチしている車体を見ていくうちに、”ピクニックライド欲” が生まれてきたのだ。

しかし、いかにしてロードレースとピクニックライドのギャップを埋めるかがどうしてもわからなかった。あと数レース走ったらCat 2になれるところまで来ていたしね。

2007年。パトリックとCat 5のレースに出走した時の写真。
リードアウト・トレインに必死!
この時点で二人とも自分の自転車をカスタムしたり格好良く見せることにハマっていた。

-目覚め

スティーブンはRivを欲しがっていた。そしてその頃はQBPがBleriotを扱っていたため、彼はRivを買うことができた。僕たちが働いていたお店はバイクショップではなく、アウトドアショップだったため、彼の知り合いの中で一から自転車を組むことができる人は、僕くらいしかいなかった。

ある日スティーブンはフレームと一緒に、博物館から引っ張り出してきたような “新しいパーツ”を僕のもとに持ってきた。彼のドリームバイクの組み立てを任せられたのだ。このバイクが初めてのRon’s Bikesビルドとも言えるだろう。僕は後頭部を掻きながら取り掛かった。

ロニーが初めてRadavistに登場。

 

自分と数人の友人に軽量特化でパフォーマンス重視の自転車しか組み立てた経験がなかった僕にとって、このRivendellという自転車はとても変なものだった。650Bって何よ? スティーブンはその頃からピーター・ワイグルやらグラント・ピーターソンやらの話をするのが好きだった。

当時そういう自転車に合うタイヤが、Panaracer Col de la Vie 38一択だったことをよく覚えている。その時の僕からしたらこのタイヤでさえMTB用のどデカいタイヤに見えた。

黄色いcat-eyeのバーテープを巻かされ、バーテープを茶色に変色させるためにニスを塗れ。と指示され、ドン引きしながらも言うことを聞いた。ボロッボロのBrooks B17サドルも付けるように言われてもっとドン引きした。更に言うと、この自転車は僕がレースで乗っていたようなアルミのバイクの二倍の重量にもかかわらず、同等の値段だということを知って驚愕した。試走するまでは全く理解できなかった。

だが、ゲルシートカバーとか、後方確認用ミラーとかついているタイプとは全く違う快適さを追求した自転車のクラシックなラインはとても否定できなかった。この瞬間をもって僕は”目覚めた”のだ。

マイ・ファースト・リヴェンデル
これを手にする前はSurlyをRivっぽく組んでいた。

(上)僕のバトルワゴン・トレック900シリーズ。2012年、西海岸をツーリングした際に撮影。ペイントを剥がして古いロゴをペイントした車体。

(下)2014年のオーバーナイトトリップをした際の僕とアリア。

 

三年後、僕はサイクリストとしても、人間としても別人になっていた。そして友人のジャレッドとカリフォルニア州をツーリングしに行った際に、ウォールナットクリークにあるRivendellの本部を訪れる機会があった。

僕らは当時650bカスタムされたラレー・インターナショナルに、当時画期的だったグランボアのエートルタイヤ 650b x 42を履かせ、前カゴ、リアにはキャラダイス・ロングフラップ・キャンパーズをつけていた。スタッフは皆いい人たちだったし、グラントが僕らの自転車のサドルをクンクン(バイクチェック)している姿も拝めたのだ。

ジャレッドはその旅から帰ると地元オースティンへ帰り、仕事を辞め、数ヶ月後にはRivに採用された。そしてその頃、ジャレッドは僕にこんな質問をしてきた。「なあ、ブルーラグっていう日本のやべえバイクショップを知ってるか?」当時の僕は知らなかった。

650bカスタムされたラレー・インターナショナル。
バーモント州ツーリングにて。

 

-ブルーラグとの出会い

その頃ブルーラグはすでに、かなり手の込んだSurlyやRivendellをビルドしていた。写真で見る限り、彼らの店内はまるでChris King x Paul Compoenentsのショールームの様だった。アメリカのバイクショップではまず扱われることのない、スモールアメリカンブランドのパーツを豊富なカラーバリエーションで揃えられていて、ガラスケースに綺麗に陳列されていた。しかも多くのお客さんがそれらを買っているようにもみえた。

2010年頃のアメリカのバイクショップはまだ、ランス・アームストロング効果が強かったのと、ニッチでクールなパーツを実店舗販売で売るのは、あまりにもリスクが高く、誰もやりたがらなかった。更に、この頃僕はアメリカ国内のローカルバイクショップに興味を持たなくなった。みんな同じ事しかしないし、不機嫌なスタッフはデフォだった。そんなのヤダね。

 

もちろん、アメリカにもピストブーム中にできたクールなショップもあったが、そのブームの寿命は短かった。いくつかのお店はシクロクロスバイクを競技用ではなく、街で乗るスタイルにシフトしていた。ゴールデンサドルサイクリーやネブラスカのモンキーレンチなどのショップがいい例だろう。この頃は「インスタ1.0」時代でもあったため、こういったライフスタイル特化のショップはローカルのコミュニティだけではなく、世界中に発信することが可能になった。ブルーラグも既にインスタを始めていて、アメリカより何歩も先を進んでいたことが明確だった。いつかこの聖地のようなバイクショップを巡礼するという妄想を毎晩するようになっていた。

 

2019年、ようやくその夢が叶う。友人のパトリックとパナレーサーの工場を見学することになり、初めて日本を訪れることになった。

ブルーラグにそのことを知らせると、東京観光の計画を立ててくれて、各店舗の案内までもしてくれた。

パトリックの言葉を借りると、 “ブルーラグのはここ10年の自分のGoogle検索履歴を一箇所にまとめたようなお店” だった。
そう、ブルーラグは僕らの想像の遥か上を行っていた。脳みそからドーパミンが流れ出て、パヴロフの犬状態だった…。
数え切れぬほどのアルマイトパーツ、天井にぶら下がるRivendellやCrustのカタログをそのまま引っ張り出したかのようなフレームの品揃え…そして地面には僕らのヨダレでできた水溜まり。
いったい、これほどまでのバイクショップをどうやって?
ブルーラグが扱うほとんどのパーツは、アメリカで作られているというのに何故アメリカにはこのようなバイクショップがないのか?
日本の文化に答えがあるのか?確かに、日本人の多くは自転車に乗るけれど、デンマークだって同じだ。でもデンマークにはこの規模のバイクショップは存在しないのはなぜだ!? 謎が多く、聞きたいことは増える一方だった。
その三年半後、僕たちはようやくブルーラグの創設者である”トシ”からブルーラグの起源を聞くことができた。

– ブルーラグの創設者、トシ(BOSS)との会話

トシ:はじまりは2006年。サンフランシスコのトラックバイクカルチャーにハマってそれについてのブログを書いていたんだ。その時まだお店はなかった。

(※Prolly時代のRadavistと同じく、ブルーラグはfixed gearについてのブログだった)

日本で固定ギアバイクについて投稿する人が他に誰もいなかった。ネットで検索すると必ず僕のブログが出てきて、ピストカルチャーが気になり出した人たちは自動的に僕のブログを見るようになっていたんだ。そのブログで自分が海外から買ったパーツとかを紹介してたりしていたんだけど、次第に「どこで手に入れたの!?」とか「俺も欲しい!」みたいなコメントもいただくようになっていて「次に注文する時一緒に買いますか?」的な感じのやりとりから広がっていった感じ。

ロニー:初めて輸入したパーツは何だった?

トシ:確かミケのシートポストだったと思う…あの穴が空いてるやつ。わかるかな。
アレ当時めっちゃレアでさ…。あ、あとヴェロシティのリムとか。

ロニー:Deep Vでしょ?

トシ:そう!Deep V!アレも日本に全然なくてさ。カラーのやつとかホントに手に入らなかったんだよ。
当時SFに住んでいて、今はヴェガスに住んでいるワカコっていう友人にお願いして、いろんなブランドに連絡してもらっていたんだ。

(※ワカコは英語を流暢に話せて、トシはそうではなかった。そのため、ワカコの通訳としての役割はとても重要だった。)

リムの話に戻るけど、自分の自転車に必要なのは二本だけだったんだけど、そんな少数の注文は受けてくれなかったから、バルクで注文する必要があってさ。そしたら当然、箱いっぱいのリムが届いちゃってさ。ブログのコメントで売るのも面倒だったから、オンラインショップを開設したんだけど、それがすごく売れちゃったんだよね。

ロニー:ワカコについてもう少し詳しく聞いていい?

トシ:ワカコと出会った時、彼女はSFでタトゥーアーティストをやっていて、彼女が日本に帰ってきた時に僕の友人とかは、彼女に彫ってもらったり、みんなで遊んだりしていたんだけど、17、18年前くらいだったかな…彼女が突然競輪の話をしだして、頻繁に日本に帰ってくるようになって、サンツアーのハブとか競輪フレームをアメリカに持って帰るようになったんだよね。そしたら今度は、SFに住むトラックバイク乗りの友人たちをぞろぞろ引き連れて帰ってきたりし始めてさ。その時はSFローカルの人たちで競輪フレームを探している人が多かったんだ。当時競輪フレームはかなり安かったから、ワカコはそれらを向こうの友人に持って帰ってシェアしたりしていて、僕はそれをずっと見ていたんだよね。
当然僕も乗りたくなって、一緒にフレームを選んだりしてもらって乗り始めたんだ。いろんな人が出している映像のように上手くは乗れなかったけど、ああなりたい!って思いながら頑張って乗っていたよ。

パット:そんな感じでオンラインストアが始まった訳だね?

トシ:うん、そうだね。オンラインストアを作るにあたって、当然名前が必要だったから、「ブルーラグ」と名付けたんだ。それが2006年の出来事だね。それから一年間だけオンラインストアをやったんだ。本職は洋服を作る仕事をしていて、ブルーラグのオンラインストアは副業的な感じでやっていた。やがてオンラインストアがどんどん忙しくなって、いろんな人が買ってくれるから嬉しくなっちゃって、頑張らなきゃ!って思いはじめたんだ。

忙しかったこともあって、やっていくうちにオンラインストアが嫌になってきちゃったから、オンラインストアはやめて初台にお店を作ったんだ。
本業の仕事は早い時間にして、初台のお店は14時から22時まで趣味の延長的な感じでやっていた。その時は、毎日24時間働いていたよ。

パット&ロニー:ブルーラグは自分達の美学をすごく大切にしているもんね。ファッションのバックグラウンドがあるのはすごく納得できた。
ここ数日お店に遊びに行かせてもらって気づいたことなんだけど、メカニックスタッフの皆は夜の10時くらいまで残って作業をしているよね。
僕たちも自分達の自宅で同じようなことをするよ。家に友人を招いて夜な夜なガレージで自転車を組み立てたりしてさ。僕らはそれを「ビルドパーティ」なんて呼んでるよ。ブルーラグのピットの雰囲気はめっちゃビルドパーティ感あるよね。

トシ:彼らの仕事はビルドパーティの延長みたいな感じだよね。初期の頃のブルーラグは、お客さんがみんなお店の前で自分の自転車組んでいたんだ。僕はメカニックとしての経験はなかったから、分かることだけちょっと教えるだけだった。その時に来ていたお客さんの何人かは、今ブルーラグで働いてメカニックになっているから、こういったトライ・アンド・エラーなスタイルはずっと持ち続けているんだ。

ロニー:こんなかっこいい自転車を毎晩組めるだなんて夢のような職場だね!

ロニー&パット:日本でライフスタイル・サイクリング (スポーツとしてではなく日常的に自転車を楽しむこと)がここまで人気なのはどうしてだと思う?

トシ:元々日本は自転車に乗る人が多いんだよね。特にママチャリに乗っている人たくさんいるでしょ。

パット:ママチャリってどんな自転車?

トシ:暮らしのための”足”としての自転車だね。”ママチャリ”って呼ばれる理由は日本のお母さんたちが、それに乗ってお買い物に行ったり、子供の送り迎えをしたりすることからだね。

(※本当にママチャリは至る所で見かける。20インチのEバイクで、リア、もしくはフロントにカバー付きのチャイルドシートがついていて、カゴにはスーパーで買った日用品が積んであったりする。ほとんどのお母さんは、車を運転するよりこういった自転車に乗っているかのように見えた。ママチャリはかなり機能的で、街中を見渡しても、スポーツ自転車に乗る人はかなり少ない)

ロニー:そもそも自転車に乗る人が多いから、今ブルーラグがやっているようなことが可能になったってこと?

トシ:うん、確かに多くの日本人は自転車に乗るし、たくさんの自転車が売れるし、それを支える素晴らしいメーカーさんが日本にはたくさんいるけれど、多くの人はそもそも自転車に期待していないんだ。自転車に乗って楽しんだり、アップグレードをしたり、自分の自転車を格好良くみせたいと思う人が少ないんだ。全員とは言わないけど、ほとんどの人は期待していない。

こんなにもたくさんのサイクリストがいて、素晴らしい製品を作れるメーカーさんも多く存在するから、この業界にはたくさんの可能性があると感じていたけど、人々の自転車に対する期待がとにかく薄かった。

僕含め、トラックバイクシーンに憧れていた人たちは、とにかくスタイルを気にする人が多かった。僕らはいつでも自分の自転車を格好よくしたかった。しかも、素晴らしい自転車製品を作れる人たちがたくさんいる日本の環境下なら、日常的に乗る自転車も格好よくできるんじゃないかと思いはじめて、バスケットのついたコミュータースタイルな(rivっぽい)ビルドをやりはじめたら、それがちょっとずつ世界中に広まっていったみたい。

2006年に初めてNAHBSに行ったんだけど…確かその時はまだ2回目のトレードショーだったかな。そこで”かっこいいママチャリ”みたいなビルドをたくさん見ることができたんだ。アメリカンハンドメイドバイクビルダーさんが組むポータースタイルの自転車がとにかく格好よくてかなりインスパイアを受けたね。その後から、競輪バイクやサーリーで同じようなビルドをできないかと思いはじめたんだよね。
今日二人とも本所の工場見学行ってたでしょ?

パット&ロニー:うん、素晴らしかった。

トシ:本所の良さも最初はわからなかったけど、本所の格好良さを教えてくれたのはアメリカのハンドメイドバイクビルダー達だった。
彼らが本所のフェンダーを使ってめちゃめちゃかっこいいママチャリのような自転車を組んでいるのをみて、カゴや泥除けが付いている自転車でもかっこよくなるんだと学んだ。それを僕らなりに手に入るものや自分らにとって便利なパーツを使ったり、僕らなりのアレンジを加えていくうちに今のブルーラグのスタイルが生まれたんだと思う。

パット:お互いに影響を与え合っている感じがすごくいいね。

トシ:本当にそうなんだよ。アメリカの人達からたくさん学んで、その学んだことを僕らなりにアレンジしたのが今の僕らのスタイルだよ。

ロニー:ここには、ビルドアーティスト(メカニック)が、選べるいいパーツが揃っているしね。

トシ:うん。僕が何かを言うことは全くないけれど、彼ら(BLスタッフ)は毎晩のようにビルドパーティをしているんだよ!

パット:好奇心が旺盛であればあるほど発見できる物事が多いってことなんだよね。

ロニー:ファッション業界のバックグラウンドがあると尚強いね。

パット&ロニー:この先日本のサイクリングカルチャーはどう進んで行くと思う?

トシ:僕らが自転車屋をやっているこの16年間で、幸いにも自転車を楽しむ方が多くなっているように感じている。自転車に乗っている人が増えているってことよりも、自転車を良いものだと思ってくれる人、自転車は楽しいと伝えてくれる人が増えている。ママチャリでもロードバイクでもトラックバイクでもジャンル問わず、それぞれの自転車に対する期待値が少しずつ上がっている気がするんだ。具体的にどの方向に進化するかは分からないけれど、車種問わず自転車を楽しむ人とか、有効活用する人とかが増えていくことは間違いないと思う。

パット&ロニー:このお店には本来インターネットでしか見られないような素晴らしいパーツがたくさんあるよね。

トシ:ブルーラグはスタッフが本当に多くて、それぞれがみんな個性的で、それぞれの個性を伸ばすことを大切にしている。
個性的であると様々なことに興味を持つし、みんな色々な成長の仕方をしてくれる。その結果としてこの品揃えになっているんだと思う。
スタッフの誰かが扱いたいパーツやブランドがあれば、扱ってあげたいし、触ってほしいから仕入れるようにしている。そのパーツが新しいものでも、ニッチな物でも。スタッフのみんながかっこいいバイクを組める環境を作ってあげたいし、みんなの意見を尊重して扱えるものは揃えてあげたい。スタッフが増える一方の中でそうしていたら物量が今の感じになっちゃったね。

パット:ブルーラグスタッフの私物のバイクはずっと見てみたかったから、今日たくさん見れて嬉しかった。

パット&ロニー:トシ、今日はお話を聞かせてくれてありがとう。

-日本のピストブームのあっけない終わり。クールなコミューターへのシフト!

次の晩、トシと遅めのディナーを共にする機会があり、ブルーラグの歴史についてもう少しだけお話をした。
僕らからすると、トラックバイクカルチャーから、Rivendellスタイルのバスケットバイクにたどり着くまでには、かなり大きなギャップをジャンプしているかのように感じた。それを”ザ・カーネル”を通じてトシに伝えてもらったところ、僕らの調査レポートに爆弾を落とすかのような答えが帰ってきた。日本はルールに従う国だ。人々がブレーキのない固定ギアの自転車に乗っているということを発見した際には、それらを禁止した。
日本のピスト時代は瞬く間に幕を閉じた。新しいクールなアーバンバイクは、太いタイヤにアップライトバーを備えたコミューターだったとさ…しかも前後にブレーキあり!

-まとめ

僕がどうしてこのようなバイクカルチャーを重要視し、発信に努力するのか?
どんな形であれ、自身の自転車を自分のものにすればするほど、自転車を単なるアクティビティとしてではなく、ライフスタイルとして取り入れる可能性が高くなる。ブルーラグのようなお店は毎年大手ブランドから出る最新のモデルや”トランスミッション “を調整するためのBluetooth VRヘッドセットの使い方を学ぶクラスに縛られていない。彼らはビルダーや顧客の好みに配慮した、実用的でハンサムなバイクを売り続けている。
それらのスモールブランドの製品を、彼らが顧客のビルドに使用したり、オンラインストアで販売することによって、僕の友人や業界の仲間達の多くを支えてくれている。その仲間達全員を代表して言うなら、ノーブレーキを禁止にした警視庁に永遠の感謝を!