このブログを読むような人達は知っていると思うけど、僕はメッセンジャーバッグが好きだ。

それは過去にメッセンジャーをしていたという経験からでもあるし、

それより昔の若い頃、東京の街を走る彼らがカッコよくて、憧れが強かったというのもある。

Via history101.nyc

唐突だがメッセンジャーの起源を遡ると、それは1860年代、ヨーロッパの証券取引関連の配達員が最古だとWIKIに載っている。

アメリカでは1890年代。同じく金融関連の配達係としてニューヨーク、サンフランシスコ、そしてネブラスカで走り始めたのだとか。

Via Mashable.com

今では考えられないけど、

1900年台に入りアメリカの各都市に広まった自転車配達員は10歳ぐらいの子供達も多く居たそうだ。

多くは電報配達やドラッグストアの配達業務など、大人の仕事を低賃金で請け負わされていたという。

過酷な環境下での仕事や雇用形態の曖昧さは大きな社会問題となったのは言うまでも無い。

誰でも乗れる移動手段での配送の重要性に気が付き、しかしながら曖昧な立場の仕事ではいられ無い事、

歴とした一つの職業だという理解が、ここで芽生えたのだとも思う。

Via britannica.com

カリフォルニア州での逸話がある。

それは1894年のこと。当時、鉄道ストライキによりベイエリア(サンフランシスコ辺り)での郵便配達が停止した。

内陸の都市フレズノのとある自転車店の店主が、フレズノとサンフランシスコの間をリレー式で自転車配達をするアイデアを思いつき、

6人の配達員がそれぞれ約30マイル(約50km)を走る体制を整えたのだとか。

Via ahalenia.com

この試みは完全に成功し、自転車という乗り物の手軽さと機動性が、

物流サービスにこれから大きく貢献するだろうと、この時の人々はとてつもない期待をした事だろう。

Via foundsf.org

そして、「自転車宅配業者」としての現代のバイシクルメッセンジャーカンパニーのスタイルを確立したのは、1945年にサンフランシスコで誕生したsparkiesという会社だったそうだ。

写真は1960年代だそうだが、ジャケットスタイルの装いに、シングルギアのクルーザー×ビッグバスケット。

(そして当たり前についているWALDのバスケット。こんな昔からあるのか。)

これがこの当時のスタンダードだったそうだ。

そしてまだこの時、メッセンジャーバッグはメジャーでなかったのが見てうかがえる。

(アメリカ大陸の反対側NYCで、何かが産声を上げた年代。というのは後ほど詳しく。)

Via missionmission.org

僕の大好きなサンフランシスコのメッセンジャー、「junior」さんも、

1968年にこの会社で走っていたという事に驚いた。そして近影の写真のはずだがスタイルもあの頃のまま。

自由人として暮らしていた彼は道端で、

「自転車に乗る仕事ならあるから、仕事したいならとりあえず靴を持ってきて。」

と通りすがりのメッセンジャーに誘われたのが始まりで、

そこから長きに渡り、地元で語り継がれ愛されるメッセンジャーになったのだそう。

こうしてメッセンジャーを調べる内に、僕は色んな記事を読み漁っていた。

今日ご紹介をするDE MARTINIのバッグは、そんなメッセンジャー文化に革命をもたらしたパイオニアだということを改めて伝えたい。

そして彼がどうして、このバッグを世に送り出したのかを知って欲しくてこれを書いている。

DE MARTINI

FRANK DE MARTINIという人物が立ち上げたバッグブランドであり、

前身は「GLOBE CANVAS COMPANY」という社名で、シンボルである四角いパッチにも記されている。

描かれている地球は、“「GLOBE」=「地球儀」「世界」”を意味しているのだというのを調べて知れた。

作られていた場所は港町であるニューヨーク。僕らはその響きについ引っ張られがちだけれど、

そこに流れるハドソン川を挟んで西側はニュージャージー州で、

ホーボーケンというマンハッタン島の見える街で1909年に彼は生まれた。

ちょうどマンハッタンブリッジが開通した年だという。

フランク・シナトラと同じビリヤード場行ってたよ笑。というインタビューが残っていたが、

想像するとワクワクするほどに古き良き活気に溢れたアメリカの街だったのだろう。

1940年代、30代の働き盛りの彼は「Brooklyn navy yard 」で働き始める。アメリカ海軍の造船所だ。

彼のストーリーでよく目にする縫帆工のエピソードは、ここでの事だと多くの情報には載っている。

他の文献では、戦艦の砲身カバーや、排水用の布バケツなども作っていたそうだ。軍需産業の盛んな時期であった。

過去のNEWYORK TIMESに記されたエピソードでは、2kgのキャンバス生地とハトメとロープを渡され説明無く徹夜して帆を作った事。

製図部門に就く事が出来たが、設計主任グループに邪魔をされた話など、

想像していたよりもハングリーで苛烈な環境の日々を過ごしていた事が想像出来る。

世界が最悪に混沌としていたこの時期、多くの人々が職を求めてここに集まったのだ。

Via history.navy.mil

そこで働く彼らが一丸になって作りあげた集大成の船がボロボロになって帰ってくる風景や、

若い可能性達が戦地へ旅立っていく背中を見ながら、どんな思いで彼は過ごしていたのかと想像してしまう。

戦後、彼は自身で船舶の帆をはじめとした、キャンバス素材専門の縫製工場をニューヨークで立ち上げる。

それが先述した「GLOBE CANVAS COMPANY」だ。

アメリカ空挺部隊のバッグや、コロンビアピクチャーズのフィルムバッグなどの外注仕事をしながら、

地元の遊園地の日除けやサーカスのテント、トラックの幌やボートのカバー、

野球のバッティングゲージのパーツなど、キャンバス生地ならではのタフな環境下で用いられるものを多く作っていたという。

Via vintage.matin.jp

その中でも、彼が当時に生産していたであろう形のバッグがある。

それが通称「BELL BAG」と呼ばれる上の写真のようなバッグだ。電話会社から依頼されていたバッグだ。

諸説あるが、電話回線の為の電気工事士向けの作業カバンとして用いられた丈夫なバッグでもあり、

電話会社が発行する電話帳という分厚い辞書のような、その街のあらゆる電話番号が記された大きな本を各位に届ける為のバッグでもあったという。

どちらも電気設備や情報網の発展に寄与した事業であり、それぞれ点と点を線にする仕事のためのバッグだったと思うと、これからの数奇な運命を感じる。

どことなくメッセンジャーバッグに通ずる雰囲気のバッグなのが、過去の出来事なのにワクワクした。

時代の流れによるキャンバス生地製品の紆余曲折を経て、

工房はチャイナタウン辺りの地下の物件へと引越しを余儀なくされる事も。

その場所は通称「DOWN IN THE HOLE」。彼自身がそう呼んでいたそうだ。

そして1965年、彼がメッセンジャーバッグを作るきっかけになった一つの出来事が起きた。彼が56歳の時だ

ある若者が、自転車便の会社を始めるから、そのためのバッグを特注で作ってほしいと工房にやってきたそうだ。そんな彼のお願いにフランクは喜んだという。

(おそらく、“Coleman Younger Motorcycle Messenger & Trucking Company”という会社なのだと思う。1965年にNEWYORKで始まった自転車専門の宅配業者だったのだとか。)

彼はそのような若いチャレンジが好きだった。若いやつの頼みならと、

BELL BAGをベースに電気工事士の腰袋のベルトとバックルを取り付け、

自転車に乗った時に動きやすい、頻繁な荷物の出し入れや、幅広い容量に対応できるようにと、

改造したそれを依頼をくれた若者へ渡し、

「そのバッグで良い仕事が出来たのなら、仲間にも教えて連れてこい。」と言ったそう。

Via bicyclerevoluthions

その後、多くのメッセンジャー達が彼の店にやって来てバッグを調達した…と話は続いているので、

その若者は充分過ぎるほどにフランクのバッグで良い仕事が出来、彼のチャレンジも成功したのだろう。

多くのライダーへの供給とフィードバッグを元にして、より良い修正と改造が加えられ、

彼の作ったバッグはこの時期に、ストリートで仕事をする為のスタンダードをユーザーと明確に形作った。

不定形な荷物が混載されても余裕のある容量と形、雨風を凌ぐ為のフラップと、体に巻き付くように絞れるストラップ。

彼が生涯生業として信頼し、長く使ってきたキャンバス生地の頑丈さ。

こうして彼のバッグが元となり、西海岸ではZO BAGが誕生し、

本当に数多くのバッグブランドが生まれ、作られ、

いつしかバッグの形のいちカテゴリーとなり、今日に至る。

「彼らは自転車に乗って仕事をする。その給料で学校へ行く。それを見るのが好きだ。」

「だから彼らからは、仕事道具としての価値分しか貰わずにバッグを作る。」

数少ないインタビューの中にもある通り、若い可能性に寄り添い過ぎる彼は、

きっと男気と人情がダダ漏れな人物だったのだろう。

それはもしかしたら、彼が過ごして来た激動の時代を経て、

未来を生きようとするこれからの若者達への、彼なりのエールだったんじゃないかなと、

多くの文献を観ているうちに目頭が熱くなった。

フランク・デ・マルティーニ氏は2000年に91歳でこの世を去った。

そして今も続いているDE MARTINIブランドは、GLOBE CANVASの工房仲間が彼の意思を受け継いで、

当時と変わらぬ製法と、キャンバス生地を用いて、アメリカで作られている。

(一説には娘さんが切り盛りをしているとも。実は真相は分からない。)

ブログで紹介するにあたり、このブランドのストーリーをちゃんと知らなければと掘り起こしているうち、

メッセンジャーバッグを形作ったレジェンドであり、メッセンジャーカルチャーにとってのキーマンだったという事を、改めて理解し尊敬の念を抱いた。

不思議なもので最近はなぜか、DE MARTINIのバッグを接客させてもらう事が本当に多かった。

お客さんと商品を触っているうち、背負っているのを見ているうちに、

キャンバス生地ならではの風合いと佇まいは唯一無二で、背負った人全てにしっくり来る変な魔力があった。

メッセンジャーバッグは背負ってみたいけどなんかスポーツライクだからな、と思われる人や、

雰囲気がなんだか柔らかい見た目のものを好む方だってきっと多い。

Via アサヒの商品レビュー

ナイロン生地では出ない独特のエイジングも気づいた時にふと嬉しくなると思う。

使い続ければ当然ヨレてくるし、ボトムの角が削れたり、不意に引っ掛けたところに穴が空いたりもする。

Via インターネットの大海

けれどその穴がなぜか子供の頃にできた膝の勲章傷のように、

ふと誇らしく思えたらそのバッグをとっても愛せている証拠で、

そのままにしてもいいし、グルグル縫って自分なりのリペアをしてみても良い。

春。新生活の人もいるだろうし、日々を変わらずに過ごしている人も、等しく訪れる春。

この季節になると相棒が欲しくなったり、一緒に何かと育ちたいなんて気もおきるかもしれない。

その相棒候補がもしもカバンだったら、このDE MARTINIはあなたの最高のズッ友になるかもしれません。

当時でも色んな色が選べたのだろう、掘り返すユーザーレビューには様々な色のバッグと思い出が記されている。

今回の入荷は特に色数豊富。気に入る色が見つかる事を願っています。

写真の急な転調に自分も戸惑うけど、

メッセンジャーバッグの紹介ブログだから関連するだろうと引き受けた二つの新商品もご紹介。

reflector clip

マグネットクリップになっているので挟める所であればどこにでも。

小さな相棒、光るお守りとしてバッグにつけたり、自転車につけたり、

相棒の相棒としてつけてあげたりして楽しんでください。

そしてもう一つ。

kangaroo safety vest

夜のライディングにはいくら目立つものを付けても足りない。

そんなナイトライドライフのスタンダードになりたいリフレクターとポケットを配したベストに新色が登場。

前作のオレンジ!ブラック!だとちょっとアタシ…的な人にもしっくりくる、

ブルー&サンドベージュのチョイ落ち着いたカラーリングとなっています。

でもリフレクターの効果はそのままギンギラギン。

通勤通学の良き相棒、おふざけ写真にハッとする、まさかの用途で急に役立ったりもするかも。

(歴史ブログがウエイト重めだったのでこの二つはこれくらいサラッとね。)

余談に次ぐ余談だけれど、歴史の中でチラッと出てきたZO BAGというのは、

アメリカの西海岸で生まれたメッセンジャーバッグのブランドで、

実は当時の彼はDE MARTINIをずっと欲しくて買えなかった、なんてエピソードがあったらしい。

メッセンジャーがゴールドラッシュだった80年台、ZO BAGのERIKはNEW YORKに行く友達にDE MARTINIのお使いをお願いするもことごとく手に入れられなかったのだとか。

やっとの思いで手にした(目にした?)DE MARTINIのバッグのボロボロ具合を見て、

ZOが考えたメッセンジャーバッグの改良版はナイロン製で、そして彼考案と言われるワンピース(一枚布)構造でバッグを製作し、

それがアメリカ西海岸、ベイエリアメッセンジャーのスタンダードになった…。

という話をちゃんと掘り起こせたのがこのブログの締めくくり。

必要に駆られて作られたモノの、美しさと清々しさと逞しさ。

生まれるまでの過程と、長年愛され現在まで変わらぬ形で残っている事に改めて気付いた時、

モノへの愛情がグッと深まるだろう。

”These kids need bags,Without a bag these kids can’t go to work.”

「この子たちにはバッグが必要だ。バッグがなければ、この子たちは仕事に行けない。」

彼はそんな風に思いながら、

地下の工房で街ゆく若者にワクワクしながら、このバッグを手際良く作り続けてきたという事だけは覚えておいて欲しい。

DE MARTINIにはそんな思い出達と、彼らの街のアティテュードが詰まっているという事だけでも、

僕にはこのバッグに染みついた最高の価値だと思う。

それでは。