Rivendell
Bicycle Works

Leather, Lugs & Wool.

"The Art of Taking It Slow"
Grant Petersen - ゆっくりと走る美学

著:Anna Wiener
出典:The New Yorker

カリフォルニアには、地質学的な時間に同調し、新たな警戒心を抱かせ、何か宇宙的なものへの瀬戸際を感じさせる場所がある。 サンフランシスコの東に位置する裕福な郊外、ウォルナット・クリークはそのような場所ではない。 風格あるディアブロ山のふもとに位置するこの街のおもむきのあるダウンタウンは、チェーン店や大型店舗に囲まれている。

ある夏の朝、私は自転車デザイナー兼、作家兼、リヴェンデル・バイシクル・ワークスの創設者でもある、グラント・ピーターセンに会いに電車でウォルナット・クリークへと向かった。ピーターセン氏は、大企業が使うことをやめた素材や部品を使って作る美しい自転車で有名となった。また、シリアスすぎず、機能的で、反自動車的で、反企業的なサイクリングのビジョンを広めたことでも知られている。

極端な意見を持つ彼は多くの人々に影響を与えている。そんな彼の元へ徒歩で現れるのは失礼だと感じたのと、私のサイクリングへ対する気持ちを正直に伝えたかったので、私は自分の自転車を持って行った。二十代の頃に購入し、10年以上楽しく乗り続けたが、妊娠したことによって死への恐怖が高まり放置してしまった1980年代の赤い”Nashbar”。
その自転車は、この2年間ガレージ内で垂直に保管され、時々バック駐車時に車でぶつけたりしてホイールが曲がっていたことでホイールを外すことができなくなっていた。それに加え、盗難防止スキュワーを使っていたが、肝心な鍵を失くしてしまっていた。

私は、ピーターセン氏とBART駅で合流した。私の自転車はリヴェンデルの水準からはかけ離れていた。細いタイヤがついていて、全体的に「放置された感」がただよっていた。これを見た彼は優しく接してくれた。「クロモリだし、ラグがついているから良いでしょう」と言ってくれた。70歳のピーターセンは筋肉質で、ビーズのように青い眼、穏やかな笑顔を持ち、波打つように頭の真ん中に寄った白髪を生やしていた。その日のピーターセンは、黒いシャツ、赤いバンダナ、ピーターセン自らが手がけるリヴェンデルのアパレルライン「MUSA」のルーズパンツを身に纏っていた。 彼は「シングルスピードチックなロードバイク」である黄色い”Roaduno”に乗ってきた。私を迎えに来てくれた時、彼の自転車は歩道に立てかけられていた。

過去40年間、サイクリングは、スピードや、最適化、競争を重視するエクササイズの一つとして、ブランド化されてきた。 セントラルパーク、プロスペクトパーク、そしてゴールデンゲートパークでは、毎朝体のラインを強調したパフォーマンスアパレルを身にまとったサラリーマンの集団がクラウドに繋げたG.P.S.を装備し、円を描くように疾走している。SoulCycleやPelotonなどのインドアフィットネス企業が、サイクリングは激しい有酸素運動であるというイメージを強めている。

新型のハイエンド自転車はどれもコンパクトで軽量、レスポンスがとても速く、フレームはカーボンファイバー製で、ドロップハンドルが付いていて、ブレーキは油圧式のディスクブレーキのものが多い。昨年のバイシクリングマガジンで、オススメとして紹介されていた自転車は、”ステルス感” が溢れるマットブラックな配色の物だった。ケーブル類は全てフレーム内にしまわれていた。その自転車は「スピード生まれ、レース育ち」という謳い文句で広告が打たれていた。

ピーターセンは、自転車業界がレースや競争に特化し、テクノロジーに依存している様子は、サイクリングカルチャーに悪影響を及ぼしていると思っている。 彼は、レクリエーション・ライダーがスパンデックス・キットや、水分の多いエナジージェル、Stravaのようなワークアウト・アプリを広く売り込むこと好んでいない。 ピーターセンは、低く湾曲したハンドルバーはライダーを不自然な姿勢に歪ませ、カーボンファイバーやアルミ製の自転車は安全性に問題があり、伸縮性のある合成繊維はシアサッカーやウールには敵わないと考えている。「昨今のプロライディングの目的は、バカ高い自転車の小売レベルでの需要を増やすためだ。」そう彼は語った。 彼は、スピードの美化、つまり自己ベスト、絶え間ない数値化、測定基準、リーダーボードなどが、純粋に自転車に乗る生活を楽しみたいビギナーサイクリストを落胆させ遠ざけていると考えている。 「選手が一台の自転車にしか乗れないというルールのツール・ド・フランスを見てみたいものだ。メンテナンスも選手自らが行い、パンクも普通の人と同様に選手が自分で修理するべきだ。そうすればレースはポジティブな効果をもたらしてくれると思う。そうすることによって自転車もより頑丈で安全なものになるだろう。そして何よりレースが今よりずっと面白くなるだろう。」と彼は言った。

リヴェンデルの自転車は「アンレーシング・バイク」として知られている。フレームはラグつきのろう付スチール製だ。ホイールベースは長く、豪華なチェーンステー、そしてスローピングしたトップチューブが特徴だ。「彼らの自転車のリアトライアングルは飛行機が潜れそうなほど広いよな。あんなことをできるのは他に誰もいないよ。」記録破りのアメリカ人トラックレーサーのアシュトン・ランビーは感心したように言った。 ”Roadini”、”Atalntis”、”Hunqapillar”、”Susie W. Longbolts”など、リヴェンデルの自転車一台一台には遊び心を感じさせる名前が付けられていて、パーツにも寄るが、およそ$2000〜$2500ほどで売られている。リヴェンデルの名物の一つといえば、舗装路を走ることにも適していて、同社が言うように、コネストーガ幌馬車が走破できるようなトレイルは走られるが、ロバが必要なほどのトレイルは走破できない、カントリーバイクだ。 一般的にリヴェンデルのフレームは、アップライト(背中が真っ直ぐ起きるよう)なハンドル、レザーサドル、マニュアルシフター、フラットペダル、そしてモリモリに太いタイヤで組み立てられている。キャリア、バスケット、フェンダー、バッグなど、クロスカントリーツーリング、バイクキャンプ、そして、その他の用事を済ませるために役立つパーツを取り付けられるように設計されている。

「自転車は醜くなりつつある」とピーターセンは語る。「私は片側50フィートの落差のある手すりの上でフロントフリップをする人より、毎日の通勤や、お買い物、もしくは純粋に楽しむために街で自転車に乗っている人の方を尊敬している。」ピーターセンは、一人でも、友人や家族と一緒でも、慌てずに楽しくサイクリングをすることを提唱し、快適さに強いこだわりを持っている。長年にわたり、リベンデルの自転車は熱狂的なファンを獲得してきた。人々は美しい大自然の中で自分の自転車の写真を撮り、それをSNSへ投稿し、他社の自転車をRivったり (リヴェンデルの自転車のように組み立てること)、ピーターセンの文章を熟読し、彼の好みに同意する。そういった人のことwo 「リヴェンデル・カルト」と呼んでいると、エクストリーム・オルタナティブ・サイクリング・マガジン、”Calling In Sick Magazine”のパブリッシャー、アダム・レイボウから教えてもらったのだ。

私はのんびりなペースで漕ぐピーターセンについて行き、リヴェンデルの拠点に辿り着いた。過去26年間、彼らは高速道路沿いの閑散としたエリアにある六つの部屋がある工業用スペースを使用してきた。そのうちの一室はショールームにだったが、売り場というよりかは、クラブハウスのような雰囲気だった。近所の中学生がラグで作ったモビールが天井にぶら下がってゆらゆらと動き、何台もの自転車がさりげなくキックスタンドで立てられていた。 リヴェンデルの自転車はとても特徴的だ。コダクロームのようなペイントが施され、エレガントなデカール、繊細なメタルインレーのヘッドバッヂなどの特徴を持っている。 ラグ(自転車のフレームのチューブをつなぐ鋼鉄製のソケット)には、ハート、ダイヤモンド、葉のカールといった模様や形が刻まれている。フォーククラウンですら美しい。 1996年のカタログでは、ピーターセンは「100年後のジャンクヤードで、ペイントやデカール、ヘッドバッジがなくても、ブランドの特定ができるというアイデアが気に入っている。…100年後の2095年に、そこらの浮浪者の芸術愛好家がフレームに出くわし、つなぎ目を見て「リヴェンデルじゃねえか!」とゲップしながら言ってくれたら嬉しい。」と書いていた。

リヴェンデルのゼネラルマネージャー、ウィル・キーティングがショールームで私たちを出迎えてくれた。背の高い30代半ばのスケートボーダーだ。Vansのスニーカー、Dickiesのワークパンツに、”Calling In Sick”のロゴ入りの帽子を被っていた。リベンデルには12人の従業員がいて、多くの従業員はヴィンテージカメラに夢中で、一時期は暗室も併設していた。「スケーターは軌跡をたどる習性があるんだ。スケートボードにハマったあとは写真にハマって、その後自転車にハマる。最終的にはバードウォッチングにたどり着く。」とキーティングは言う。ピーターセンや、その他の従業員のモノクロ写真が壁一面に飾られていた。綺麗な格好をした人もいれば、タトゥーが入った人もいて、皆ヘルメットを被らず、オークやユーカリの木立の中を走り、陽光が降り注ぐ尾根に沿ってペダルを漕いでいる。その写真はまるでカリフォルニアの広告のようだった。

近年、主流になりつつある自転車にはバッテリーやファームウェアを必要とするような電子機器が組み込まれている。ボタンの操作だけで変速し、パワーメーターはライダーの出力をデータとして収集する。「たくさんの基本的なものがテクノロジーに追いやられて絶滅しかけてるんだ。」とピーターセンは言う。彼はこれをビジネス・インセンティブの機能だと見ている。電子機器はいずれ壊れるか、替えが必要になり、アップグレードが常にすぐそこに待っている。ピーターセンの目標は実用的かつ哲学的なものだ。自転車がよりハイテクになればなるほど、ライダーはスキルやパワーを失う。「多くのスポーツは水増しされ、薄められてきた。」と私に語ったのはパタゴニアの創業者、イヴォン・シュイナードだ。「人々は自転車に乗っているが、そこにはモーターが付いている。また、人々はクライミングをやるが、室内の壁を登る。彼らは確かに大きな波に乗るが、ジェットスキーに引かれている。しかしそんなトレンドに逆らうのはほんの一握りだけだ。」

リヴェンデルのショールームでは,テーブルに銀色の自転車フレームが置かれ、シフターにクランク、チェーン、ペダル、ギアといった自転車が前に進むための推進力を生み出す駆動系のパーツたちが組み込まれていた。「機械式の美しさについて話そうとすると、本当につまらない話になってしまうんだよ。」とピーターセンは言った。「詩的なことを言いたいわけではないんだけどね。でも誰しもが実際にどうやって動くのかは見てみたいと思うからね。」彼がクランクを回してフリクションシフターを操作すると、小さなディレーラーがスムーズに静かな変速を行う。「階段というよりかはむしろ傾斜路に近い。」とリヴェンデルのウェブサイトで表現されているこの仕組みは、80年代半ばにインデックス変速が導入されるまでは業界のスタンダードだった。私たちはディレーラーがギアからギアへとチェーンを持ち上げていくのを眺めていた。「とてもシンプルで簡単だよ。」と彼は言った。「ほんの少し練習が必要なんだけれど、その少しの練習ですら市場では売れない原因になってしまうんだ。」彼が言うには電子的なパーツは安くて製造も簡単で、乗り始めるまでのハードルを下げることができる。「でも失っているものもそこにはあるんだ。自分でコントロールするその感覚だよ。」

彼についてオフィスへ行くと、そこは工具や本、フライフィッシングの道具が綺麗に詰め込まれ、棚の上にはレアなディレーラーで溢れたプラスチックボックスが置かれた狭い部屋だった。二脚の人間工学に基づいてデザインされたスツールが置かれ、固定電話はエルゴノミックフォームのブロックに包まれ、持ちやすくされていた。ドアの脇には小さな額に入れられた人懐っこい感じの二人の老人がリヴェンデルのバイクと並んで写っている写真が飾られていた。「これはご両親?」、私は彼に尋ねた。「いいや、違うよ。」とピーターセンが答える。「ジミーとロザリン・カーターだよ。」

ピーターセンはウォルナット・クリークから一つ隣町の郊外、カルフォルニア州のラファイエットという場所で育った。彼の父親は機械技師で、母親は画家として働いていて主婦でもあった。ピーターセンは人気のある体育会系のアウトドア好きな少年で、野球に新聞配達、パチンコ、キジ狩りなど、まさに彼の幼少期は1950年代のボーイスカウトを思い起こさせるものだった。それでも彼は周りの同級生との間に隔たりを感じていた。「23歳までおねしょしてたんだよ。」と彼は話した。「人生に対してのものの見方がまるっと変わってしまったんだ。」彼はお泊まり会をしたことがなく、女の子には内気だった。この生理的な問題は彼の将来の展望すらも狭めてしまっていた。。1972年に高校を卒業した彼に寮での生活は不可能に思えた。そこで彼は家に残り、地元の短大に入学し、1975年にはベイエリアのエネルギッシュなアウトドアレクリエーションシーンの中心地だったバークレーに新しくオープンしたR.E.Iで働き始めた(彼の話によると、彼が気に入った商品の棚に長々と手書きのPOPを貼るようになってから、会社は一時期「手書きのPOPは禁止」のルールを設けたという)。彼は登山とロッククライミングを始め、往復30マイルの道のりを自転車で通勤した。1976年の夏、ガールフレンドとウォルナット・クリークからコネチカット州北部まで自転車で横断し、ヒッチハイクで戻ってきたりもした。

20代を通して彼はローカルの大会でレースに出場していた。「きっと彼はこれをバラされたくないだろうけど、彼も他のみんなと同じように脚の毛を剃ったりしてたんだよ。」と話すのは友人であり、チームメイトだったクリス・ワトソンだ。彼の周りはイタリアのカンパニョーロが製造する高級なパーツを好んでいたが、ピーターセンにはそれを買う余裕はなかった。「私のバイクは13のブランドと7つの異なる国を代表したようなものだったと思う。」と彼は言う。「ごちゃ混ぜだったけど、機能は完璧だったんだ。」彼は競い合うことにおいて才能があったが、相反する感情も抱いていた。「私はレースシーンとその文化をよく理解しているし、それを心地よくも思うけど、嫌いなんだ。」と彼は話した。

1984年、ピーターセンは日本のタイヤ・コングロマリット企業の分社だったブリジストンUSAサイクルで簡単な仕事に就いた。ブリジストンは当時日本最大級の自転車メーカーだったが、アメリカのオフィスといえば、たった6人ほどの従業員がいるばかりで、自転車のエキスパートはいなかった。セールス部門で働いていたピーターセンとワトソンはMB-1と呼ばれる、ロードバイクのスポーティさやスピードとマウンテンバイクの強さを掛け合わせたような自転車のデザインを手伝っていた。「私はブリジストンの自転車に対して、必要以上の影響力を持っていたんだ。」とピーターセンは語った。「でも僕以外は誰も自転車のことをよく知らなかった。」この自転車はすぐに売り切れ、それ以降のブリジストンUSA製の自転車にはピーターセンによるデザインが盛り込まれていた。「間違いなくマウンテンバイクの歴史上最高のレースバイクの一台に数えられる。」と語ったのはロサンゼルスのバイクショップ、Allez LAのオーナであるカイル・ケリーだ。ピーターセンはマーケティング部門の責任者となった。ブリジストンのライダーや熱狂的なファンのために”Bridgestone Ownwners Bunch”という定期購読のクラブを作り、”bob Gazette”と呼ばれたニュースレターを刊行し始めた。ニュースレターには記事、商品一覧、Q&A、ワードゲーム、ヒント(今度誰かに騙されてマッサージをさせられることがあったら、麺棒でやってみよう)が掲載され、熱心な読者を獲得していた。”bobs”として知られる彼らは倹約家で、DIYの精神を重んじ、名声といったものよりも機能に価値を見出した。「私は自転車に安価で高機能なものをつけることに肯定派なんだ。」と彼は話した。「3,500ドルのバイクに28ドルのディレーラーが付いていること自体に一種の美しさがあるんだ。」

1994年、ブリジストンはアメリカでの自転車事業の撤退を発表した。ピーターセンは私に彼が大手の自転車メーカーであったスペシャライズドから非公式の内定通知をもらっていたことを話してくれたが、その頃の市場の変化にはもう夢中になれなくなっていた。製造の拠点は中国に移った。マウンテンバイクはオートバイの影響を受け、フォークや車体にサスペンションが組み込まれ始めていた。カーボンファイバーやチタニウムといった素材が導入されたことで航空宇宙産業を含む新たなメーカーが業界に参入してきた。「ジオメトリー、デザイン、ペイント、グラフィックの全てが私とっては受け入れがたいものだった。」とピーターセンは言う。タイミングもまた理想的なものではなかった。彼と彼の妻であるメアリー・アンダーソンには5歳の娘がいて、2人目の子供も授かったと知ったときだったのだ。そして彼は”bob Gazette”の最終号の中で自分自身の会社を立ち上げることを発表し、こう書いた。「リヴェンデルは良くも悪くも、裕福だろうと貧乏だろうと、私の極めて個人的な好みを反映したものになるだろう。」と。

それから数ヶ月の間にピーターセンは友人や家族から89,000ドルを借りて資金調達し、ガレージにショップを設置して、アンダーソンは会社の副社長となった。リヴェンデルの最初の製品はピーターセンが自宅のキッチンで作ったグリスアップ用の蜜蝋だった。彼は新たに”the Rivendell Reader”というニュースレターを始めて、”bob Gazette”時代の住所リスト宛に送付した。「簡単にいえば、私は自転車とは世界を救う、もしくは少なくともあなたを幸せにする、乗ることのできる芸術品だと思っている。」と彼は読者に伝えていた。「しかし、多くの現代的な自転車は自己顕示欲やステータスを高め、競争相手を打ちのめすための道具としてプロモーションされ、それ自体がチンピラや凶漢、ろくでなしのように見える。」読者は多くの自転車パーツやアクセサリーの情報に触れることができ、また、「ブーメランはなぜブーメランになるのか」といった物理学の入門書のような自転車とは関係のない内容もピーターセンの個人的な興味としてしばしば取り入れられていた。また、ニュースレターには”プログレスレポート”と題されたコラムが掲載され、会社の発展について事細やかに書かれてた。経営面では、リヴェンデルはほぼ常に赤字だった。「私たちは金はかかるが、長い目で見れば将来的には報われるような小さなプロジェクトに邁進している。ファイナンシャルアドバイザーが反対するようなことばかりだ。」とピーターセンは1999年にどん底の中でそう綴っていた。「しかしラグは本当に面白い。ほとんど誰もそれに気に留めないような時代に、私たちが私たちがこんなことをしているのは皮肉なものだ。悲劇的であり、同時に滑稽でもある。」

ピーターセンと会った数日後、私が郵便物を受け取りに階下へ降りると、書類としか表現のしようがないものが詰まった段ボール箱が届いていた。古いブリジストンのカタログと”bob Gazette”に加えて、ほぼ完璧な状態の”the Rivendell Reader”のアーカイブといったものだ。箱の中には1996年に発行された”Outside magazine”も入っていて、そこには”私たちをチタニウムには導かない”という見出しの元で、”自転者愛好家にとっての救世主"としてピーターセンの話が掲載されていた。彼はそこにバギージーンズに首元までボタンを留めたダークカラーのシャツというスタイルで写っていた。ポストイットが文章の上に貼り付けられ、「嫌いだ。」と彼が鉛筆で書き込んでいた。「奴らは私に服を着せた。」同じ年の”the Rivendell Reader”のある号で、ピーターセンはこの記事に反論していた。「私は自分で作ったわけでもないフレームを掲げて、夕日の中でポーズをとっている七面鳥にしか見えないし、記事にはまるで私が”群れ”のリーダーかのように書いてある。それにチタニウムは嫌いじゃない!良い素材だ!綺麗だし、錆びたりもしない!ブラボー!もうどうでもいい!くそ!」

リヴェンデルの従業員たちはカルト的と評されることに異論を唱えている。「他のものがカルトなんだ。」とキーティングは話す。「スーツを着込んで、可能な限り早く走り、こんな風にハンドルを握る。」、私たちはテーブルを囲んで座っていたのだが、彼はコーヒーカップを守るかのように背を丸めてみせた。「そっちの方がよっぽどカルトだろう?、僕らはただ素敵な自転車を広く一般の人たちのために作ってるんだ。」それでも人々は取り憑かれたように夢中になって買い求めてしまうものだ。ファンのためのオンラインフォーラム、”the RBW Owners Bunch”には5,000人以上のメンバーがおり、ユーザーは日常的に投稿している。彼らは地元の街でリヴェンデル・ライドを開催し、職務経歴やインスタグラムのハンドルネームで自転車の名前をチェックする。私が訪れたある日の午後、従業員たちは顧客から送られてきたJunior’sのチーズケーキを齧っていた。ミシガン州南西部に住む看護師のリア・ピーターソンは3台のプラティパス(曲線的で細長い直立した姿勢で乗れるカントリーバイク)を所有し、プラティパスに乗る”リヴェンデル・シスターズ”にテーマ別のエナメルピンズを送っている。数年前に彼女がショップを訪れたとき、クルーたちは大きなサインボードを天井から吊り下げて彼女を歓迎した。ピーターセンと彼女は”HubbuHubbuH”というリヴェンデルのタンデムバイクに乗って街の周りをクルージングして楽しんだ。数ヶ月後、彼女の父親が肺塞栓症で急死した。郵便物を開けてリヴェンデルスタッフからの手書きのメモを見たとき、彼女は驚いた。「どこの会社が自分の父親が亡くなったときにお悔やみ状を送ってくれると思う?」、と彼女は聞いた。

リヴェンデルの魅力の一部は紛れもなくピーターセン本人だ。この男にはオーラがある。彼は長袖のシャツにパンツ、Tevaのサンダルといった出立ちで、マルチカラーのマニキュアを塗った自転車に乗ることが多い。彼はハンドルバーをカラフルなフェルトやテープと麻ひもで包み、シェラックを塗っている。「私はブロッコリーのラバーバンドを車体の中央に付けるのが好きだ。グリップが増すんだよ。」と彼は書いていた。彼は時折バスケットやハンドルバーに詩を巻きつけては、それをトレイルライドの間に暗記したりしている。現実主義者である彼はS24O(24時間以内のオーバーナイト)と呼ばれる、社会人サイクリストのためのステイケーション(時間のない人のためのキャンプツーリングのことで、家の近くの自然の中へ行って一泊し、次の朝には帰ってくるというもの)を楽しんでいる。2012年、彼は”ジャスト・ライドーラディカルで実践的な自転車入門”という書籍を出版し、サイクリングのテクニックや食事、フィットネス、エチケット(自転車道では聖人のようにあれ)に関するアドバイスを提供している。物議を醸すが、彼はヘルメットに対しては賛否両論あるようだ。彼はほとんどのヘルメットはパッドが不十分かつ見た目のために安全性を犠牲にしていると考えており、私たちの文化的な執着がドライバーではなく、サイクリストに不当な責任を押し付けているとも思っている。そしてそれこそが不当な自信を植え付けている原因だと考えているようだ。(「リスクへの補償はするな。」と彼はヘルメットを被る私に言った。)彼がたまに被るヘルメットは梱包用の緩衝材で補強されている。

ピーターセンは”Grant’s Blahg(グラントのブラァグ)”というブログを更新している。内容としてはビジネスの最新情報にハウツーのようなヒント、個人的な考察、自転車の情報、ありがたいヤギの写真などなど、まさに気ままな情報の宝庫だ。彼は自分自身の興味を大切にしていて、例えばフライフィッシングやインスリン、行動心理学など、何かが彼の興味を惹いたときにそれを深く探究するのだ。また、彼は石けん(松脂が一番)やアメリカ硬貨(くまのプーさんを肖像に)、スペリング大会(観客を楽しませるために、全員同じ単語のスペルを暗唱しない)など、様々なものに強いこだわりを持っている。彼は思っているよりもe-bikeに対して独断的ではない(車よりはマシ)。彼は言葉遊びも好きで、ある20ページほどのリヴェンデルの冊子は”E”の文字が一つも使われていなかったりする。「それは自転車のことではなく、人間関係だ。」と私に語ったのはフレームビルダーのリチャード・サックスだ。「あなたはグラント自身を買っているんだ。グラントの知的財産と彼が自分の信念に忠実であり続けたこの40、50年間を買っているのだ。」

最近友人たちとバーに行ったとき、テラス席に1人で座ってビールを飲んでいた30台後半の投資家、ピーターと会話をした。彼の向かいにはリヴェンデルが停められていた。”A. Homer Hilsen”は太いタイヤにサイドプルのブレーキ、サドルバッグ、そして車輪が生み出した電力で駆動するダイナモライトを備えていた。ピーターはこのバイクを”アポカリプス・バイク”にしたかったという。通勤やちょっとした用事を済ますのに便利で、キャンプツーリングもでき、大きな地震が来た後に飛び乗れば、誰にも頼らずどこへでも行けるようなバイクのことだ。彼は見知らぬ人たちからリヴェンデルのことで話しかけられる機会の多さに驚いていた。その晩にリヴェンデルきっかけで彼に話しかけたのは私でなんと3人目だったのだ。「週に何度も誰かに話しかけられると前もって知っていたら、私はこの自転車を買っただろうか?」それでも数分後に、彼は二台目の購入検討していると話した。

7月に入ると、ピーターセンは友人であるダン・レトに頼んでマルティネスにあるフェルナンデス・ランチへトレイルライドに出かけた。ピーターセンは運転免許は持っているが、運転するのを嫌っている。「誰かを傷つけたらと思うと怖いんだ。」彼がこの4年間で運転したのは90分間ほどだと推測されている。レトが90年代物の白いフォード・エクスプローラーを運転してショップに到着したとき、気温は3桁(華氏100°F = 摂氏37.8°C)をマークしていた。ピーターセンは作業部屋に姿を消すと、冷たい水に浸したバンダナをまるで小さなマントのように首の周りに巻いて戻ってきた。この日の朝、彼は顔に日焼け止めスティックを塗っていて、頬と額にはびっしりと白い筋がつき、同じように首にバンダナを巻いていた。そんな彼の姿はどこか少しおかしく私の目には映った。「エアバッグの後ろに座りなさい。」とピーターセンは前の座席を指差して私に言い、彼と一緒に来たキーティングは後ろの座席へ身体を折りたたむようにして座った。

7,000エーカーの自然保護区であるこのフェルナンデス・ランチはシェブロン製油所から数マイル離れたハイウェイ沿いにある。一年の大半は草が生い茂り、なだらかな牧草地が広がり、ワイルドフラワー咲き乱れる土地だ。しかしこの日は真夏で、地面は黄金色に輝き、カリッカリに乾燥し、ポツポツとリスの巣穴が開いていた。駐車場でピーターセンは、彼が私のために持ってきてくれた自転車、太いタイヤを履き、アップライトなハンドルバーの付いたモスグリーンの”Clem Smith Jr.”に目をやった。サドルは私が慣れているものよりも高かった。私はほとんど舗装路しか走ったことがなく、交通量もあるところばかりだったので、急に地面に足を下ろすことには慣れていた。その前週、私はリヴェンデルの本拠地でプラティパスを試乗したときに、フレームに足を引っ掛けてしまい、サドルに身体を押し上げるように転倒していた。ピーターセンは私を見て、「このサドルの高さは人間工学的には問題ないが、心理的には恐ろしい。」と言って、サドルを下げた。

ピーターセンが選んだコースは、スイッチバックの連続を見晴らしの良いところまで登り、そこからは長く官能的な坂を下るという短いものだった。彼はその数日前、私にそわそわした様子でフリクション・シフターでの変速や上り坂でのペダリング、急な下り坂での惰性走行などについてのアドバイスを、過干渉すぎることへの謝罪とともに送ってくれていた。彼の2人の娘たちは私とほぼ同じ年齢で、もし私が怪我をしたら、彼を慰めるのは最悪の事態になるような気がしていた。私たちは狭いトレイルを登り始め、開けた野原から木陰へと移動した。ハイウェイと製油所は視界から消えた。私は遅々として進まず、心穏やかではいられなかった。上り坂では”Clem”を押して歩き、まるでロバのようにトレイルを誘導しなければならなかった。誰もが私を安心させ、親切にしてくれたにもかかわらず、私はペースを落としてしまったことを恥じる気持ちを鎮めるために少し自分語りをしたりもした。

ライドの途中、私は分かれ道に出くわした。私は他の皆んながどちらの道へ進んだのかがわからず、しばらくそこで立ちすくみ、オークの木陰と静けさ、首に巻かれたカラカラに乾いたバンダナに感謝した。2002年に書かれたピーターセンのエッセイで彼が言うところの”アンダーバイキング”、つまり明らかに自転車では行けないような場所へ自転車を持ち込むことについて、私はそのエッセイを思い出そうとしていた。「”アンダーバイキング”はあなたの見方をどんな地形に対してでも変える。」と彼は書いている。「乗ることができる場所では乗り、歩く必要があるときは歩く。最新のテクノロジーよりも自身の成長していくスキルに頼る。」私はこれを世界を調和的に移動する手段だと感じた。私は突き進み、グループを見つけ、彼らの後を追いかけて急な下り坂を颯爽と下った。乾いた土がふくらはぎに当たる。私はブレーキを緩めた。暑さの中、使い方がよくわからないフリクション・シフターを操作していても、私は大好きな感覚、自分自身の実力がちらつくのを感じた。幅の広いタイヤは調子が良く、サドルの高さも怖いとは思わなかった。それまで乗った自転車の中で圧倒的に長く重かったが、驚くほどに優雅に動いた。私たちは駐車場で自転車から降りた。太陽はいまだに容赦なく照りつける。今が何時なのか、どれくらい走っていたのか、私には全くわからなかった。全てをもう一度やり直したい気分だった。携帯電話を覗くと、そこにはベビーシッターからのメッセージにカレンダーのアラート、そしてメールの山。「子供の頃に戻ったみたいじゃなかった?」と私に尋ねながら、レトはピーターセンと自転車を分解して車に積み込んだ。私には彼が言わんとすることが理解できていた。しかし、私はその代わりにとても大人びた憧れのようなものを感じていた。それはまるでとても都合の悪いタイミングで、新しく魅力的な生き方を垣間見てしまったようなものだった。

ピーターセンはリヴェンデルのインスピレーションとしてパタゴニアの前進であるシュイナード・イクイップメントの1972年のカタログを頻繁に引用する。このカタログの中でイヴォン・シュイナードはロッククライミングによる環境破壊について業界を非難し、スチール製のピトンを製造している自分自身の責任を認めている。「彼がやろうとしていることには共感できる。なぜなら私も同じことをしようとしたからだ。」とシュイナードは私にピーターセンのことを話した。パタゴニアの会社としての規模が拡大し続けることを懸念するシュイナードと同様に、ピーターセンも成長を警戒している。リヴェンデルのやり方で作っている工場は限られている。ロストワックス鋳造で作られるラグは驚くほどにタフだが、製造には長い時間がかかる。フレームの大半は1人で塗装されている。「何も薄めたくないんだ。」、そうピーターセンは言った。「フィルソンのようにはなりたくない。都会人に牧場の作業着を売りつけるようなことはしたくないんだ。」

昨年、リヴェンデルは400万ドルの利益を出した。年間に約1,500台の自転車を販売し、その他にもパーツやパンツ、メリノウールの靴下やセーター、”たのしい川べ”の本、真鍮製のベル(うるさいがフレンドリー)、バンダナ(あなたの身体を冷やしてくれる)、そしてオルバスのアロマセラピー吸入器(よく鼻が詰まる義理の息子に試してみたが、2秒もしないうちに「これって中毒性がある?」と聞いてきた)といったものも販売している。リヴェンデルはいくつかのディーラーとも取引をしているが、販売する自転車のほとんどは彼らが直接顧客へ売っている。彼らには大きな倉庫はなく、在庫も限られている。「私はビジネスマンじゃないが、フレームがたったの4分間で売り切れるなんて、彼らは金儲けのチャンスを逃してるんじゃないのか?」と私にテキストメッセージを送ってきたのは事前販売期間中に”Joe Appaloosa”の確保に失敗した私の友人だ。「私は成長が必ずしも良いものだとは思っていない。」とピーターセンは私に話した。「利益を目的に何かを大量に作ろうとするとき、そこにはいつも妥協が付きまとう。」

1999年以来、リヴェンデルにはフリクション・シフターやクランク、ハブといったものを作る”Silver”という自社パーツブランドを持っている。中にはシマノやサンツアーといった大企業が製造を止めてしまった製品の”倫理的に製造されたコピー品”もある。「私たちは大手自転車パーツメーカーから独立してしようとしている。」とピーターセンは言った。「10年前はまだ私たちの好むものが買えた。20年前なら容易だった。今では本当に難しい。」陳腐化していくパーツは彼の30年来の病的な執着の対象だった。ブリジストンでは、彼は流行遅れになりそうなパーツを毎月リストアップする”絶滅危惧種カレンダー”をつけていた。ブログ、”Bike Snob NYC”の著者であるエベン・ワイスはフリクション・シフターについてこう語った。「グラントのような人間がいなかったら、今頃はeBayでしか手に入らないパーツだっただろう。彼がフリクション・シフターを生かし続けているんだ。」5年前から、リヴェンデルはおろじなるのディレーラーの製造に取り組んできた。「彼はビジネス上の決断は下さない。サイクリングへの愛のために決断を下すんだ。」

長い年月を経て、ピーターセンの考え方はサイクリングのメインストリームに浸透していった。人々はS24Oへ行くようになり、その手法をそうやって呼ぶようになった。彼らはロードバイクで山へ入り、#underbikingのハッシュタグを使って、その様子をインスタグラムに記録する。業界の一部では、バスケットやラック、太いタイヤが人気だ。ピーターセンは流行遅れのホイールサイズ、つまりグラエルに適したふっくらとした650Bを再び流通させたことで広く知られている。SurlyにCrust、Velo Orangeといった新しいブランドは現在、同様のフレームを製造している。しかし、一部のサイクリストたちはピーターセンのことを威圧的だと感じている。彼らはスパンデックスの着心地を好み、ちょっとした競争に意欲を燃やす。自分たちの自転車が長持ちしなくても気にしない。彼らには彼らなりの喜びがあるのだ。スペシャライズドのCEOであるアーミン・ランドグラフは、彼の顧客はツール・ド・フランスで見るようなプロレベルの自転車を買うのが好きで、スポーツとの繋がりを感じているのだと語った。「それは情熱だ。」と彼は言うのだった。

ピーターセンが直面する批判の主だったものは、彼の好みが不必要にノスタルジックだというものだ。1990年、”Bicycling”誌のコラムニストはピーターセンのことを”レトロ好き”と呼び、彼は19世紀のペニーファージング乗りの末裔に違いないとジョークを飛ばした。(熱心なサイクリストである私の知人は、数週間に及ぶリヴェンデルでの旅でピーターセンの推奨するウールの下着を着用したことがあると話してくれた。「あまり合わなかった。」と彼は言う。「私のお尻にはね。」)フィルムカメラやビンテージの腕時計のような、熱心な愛好家たちを魅了するニッチでローテクなものにも同じことが言える。「最近の自転車はとてもデジタルに見える。」と語るのは”Allez LA”のケリーだ。「リヴェンデルはとてもアナログに見える。」彼はリヴェンデルの典型的な顧客はいまだに二つ折りの携帯電話を使っていて、レコードを聞くようなやつだと冗談を言った。「彼らは新しく見えないものを見たときに感じるんだ。」女性向け自転車の設計を専門とする著名な自転車デザイナーのジョージナ・テリーは、関節炎を患っているような年配の顧客には電動式変速が喜ばれるんだと語った。それでも彼女はピーターセンのことを業界の”アイコン”だと表現していた。「たとえシンプルすぎるとかそういった理由で一度もグラントの自転車に乗らないような人でさえ、彼のことは尊敬しているのよ。」と彼女は言った。

2018年、ピーターセンはトランプ大統領の移民の親子を引き離す政策に関して怒りを込めて自身のブログに投稿をし、それに読者の一部に反感を買ったことに驚いていた。その年の暮れ、リヴェンデルは興味を持ってショップを訪れる黒人の客に対して割引を提供した。不完全ではあるが、反人種主義な行動への取り組みとしてだ。2020年にはピーターセンはこの取り組みを正式なものとして”Black Reparations Pricing(奴隷制度への賠償価格)”と名付け、寄付金を募る”Black Reparations Fund”を始めた。後日、保守派の弁護士たちが人種によって顧客を違法に差別しているとリヴェンデルを非難した。ピーターセン側の弁護士たちは取り組み自体を止めるように彼に忠告した。リヴェンデルは同じイニシャルを維持するために、この慈善基金を”Bikes R Fun”と改名し、昨年には6万2,000ドルを慈善団体へ寄付している。また、ピーターセンは彼がローカルのスーパーマーケットで出会った黒人のレジ打ち係、”グローサリー・ガイ”やタイムズ紙の違法滞在女性に関する記事で知ったサウスブロンクスに住む3人を持つシングルマザー、イザベル・ガランなど、個人のための募金活動も行なっている。彼はサイクリングをより包括的で短なものにすることに関心があるものの、革命が4,000ドルのリヴェンデルに乗ることはないだろうと考えている。彼は現在、「アメリカ自転車史図解ー人種差別、性差別、公害、政治、ポップカルチャーまでを乗りこなすー」というビッグバンの時代から始まる数冊からなる書籍の出版をするプロジェクトに取り組んでいる。

リヴェンデルの未来は明白なものではなく、また、必然的なものでもない。「最初の10年間は支払不能になる月があった。」とピーターセンは言った。2008年と2018年の2回、リヴェンデルは家賃と給与を支払うのがやっとの状態だった。どちらのタイミングでも、ピーターセンは顧客へ訴えかけてギフトカードやその他の商品を購入してもらうことでキャッシュフローを回復させていた。二度目のタイミングでは顧客たちは総額20万ドル以上にもなるストアクレジットを購入していた。リヴェンデルは価格を二倍にすることもできたが、ピーターセンは人々にとって高価になりすぎてほしくないと語った。「普段使いの自転車として使ってもらえなくなるだろう。」と彼は言う。リヴェンデルの財政面が安定し始めたのは、パンデミック時代の自転車ブームと日本市場での新たな人気の高まりの後、2020年に入ってからだった。(現在の彼らの経営状態は日本の自転車店であるブルーラグによるところが大きいと、ゼネラルマネージャーのキーティングは話す。)最近のピーターセンの最大の関心は、従業員たちが望めば、彼らが残りのキャリアを全うできるような場所にしていくことにある。「私もわかっているし、それは彼らも同じだ。私たちが今やっていることをやめたら、もう誰もまた始めたりしない。誰もやらなくなってしまうんだ。」

8月、私は”Calling In Sick”のレイボウと週末のライドに参加した。朝の9時ごろ、キーティングを含む6人の彼の友人たちが、スウェットシャツにチェックのボタンダウン、Vansのスリッポンを履いてゴールデンゲートブリッジのたもとに集まった。濃い霧が湾を覆い、アーチを覆い隠していた。カモメたちが風に乗って宙を漂い、橋の上の車は何もないところを走っていた。私たちはサンフランシスコのサイクリストたちに人気のあるマリン郡を目指していた。週末になると、洗練されたライダーの集団たちで溢れかえり、小さな町の大通りにやってきては、ビンディングシューズをカツカツ鳴らしながら休憩を求めてパン屋に入っていく。私たちから数ヤード離れたところで、スパンデックスのウェアに身を包み、お揃いのヘルメットを被った、しなやかな体格をした2人が寒さをこらえるようにして抱き合っていた。私はピーターセンが自身のブログに書いていたことを思い出したのだった。「美しいバイオームの中に存在する美しい自転車は理にかなっている。」リヴェンデルにはロマンティックな何かがあった。同じ道を走る他の自転車を平凡なものに見せてしまうような何かだ。

ピーターセンが私に貸してくれた”A. Homer Hilsen”は青い色をした、アップライトなハンドルバーと金属製のバスケットは付いた自転車だった。レイボウと他の2人は緑の”Clem Smith Jr.”に乗っていた。これは”Calling in Sick”が一号丸ごとの特集を組んだこともある、ステップスルーで、非常に低い位置にトップチューブが付いているモデルだ。とある”Clem”のオーナーによると、最近のライドで、トレイルで見知らぬ人から「お姉さんが自転車を貸してくれるなんていいね。」と罵声を浴びせられたという。リヴェンデルの客層はこれまで、その快適さを求める中高年が多かったが、この10年で若い世代(その多くはスケートボーダー)が自転車はオフロードでも十分に楽しく、丈夫であることに気づいて人気が出ている。「ブランドの理念はゆっくり走ってもよい、ということです。」とレイボウは私に話した。「しかし実際のところは、早く走りたい人たちは、たとえそれがリヴェンデルであったとしても速く走るものだ。」

特別急ぐわけでもないペースで、私たちは丘陵地帯へと入り、そこからカーブの多い舗装路をトンネルを目指して登り始めた。地面には鳥が落としたと思われるイワシが散らばっていた。野生のフェンネルが肩のあたりまで伸びており、レイボウはその葉を摘んでかじっていた。彼とキーティングは、誰もいない道を走るためにマリン郡のヘッドランズ周辺を何年も走っており、もはや分子レベルでこのエリアに精通しているようにも見えた。トレイルヘッドで、キーティングは私に少しタイヤの空気を抜くように勧めた。「私の個人的な好みだ。」と彼は言う。そしてわだちの残る岩だらけのハイキングコースへと入っていった。私たちは太平洋を臨む砲台跡に向かっていた。水の溜まった砲台はイモリたちに占拠されていた。3種類のグミベアが出てくる。ライダーたちは水溜まりに身を乗り出してサンショウウオを目で追いかけ、そしてまた風を切った。

他のライダーたちの力強さやおそれを知らない姿に、私は表現しようのない羨望を覚えた。夕暮れ時にロングライドに出掛けたり、寝袋にパッチキット、少しの食料を持って森へサイクリングへ出掛けたりして、素晴らしい夜を過ごすことができると確信できるのはどんな感じなのだろうか。世界には2種類のタイプがいるように思えた。物理的な世界に精通している人とそれ以外の人だ。前者には自信とスキル、そしてノウハウがあり、後者には盗難防止のスキュワーを外すためのYouTubeチュートリアルがある。

市街地に戻った私は、レイボウたちと別れた。久しぶりに特に居場所がなかった。目的がないことが心地よく感じられた。ゴールデンゲートパークで他のライダーたちとすれ違うとき、”Homer”が異常に目立っていることに気がつき、私は自分が気取り屋になったような気分だった。もし誰かがドライブトレインについて質問してきても、私は答えなかっただろう。私がそうしようと思ったのは、威信や名声のためではなく、それが正しいと感じたからだった。私は容赦のない最適化が楽しい時間を歪めてしまう可能性について考えた。そして、その過剰さと根本的な安っぽさに対して、私はよくわからない不安を覚えたりした。e-bikeに挟まれないように気をつけて走った。

数週間後、私は借りたものを返すためにウォルナット・クリークを訪れた。最後に会って以来、ピーターセンとは何十通もメールのやり取りをしていた。ヴァージニア産のピーナッツや輪ゴムのこと、彼が2歳になる孫娘を”Rosco Bebe”に乗せて出掛けたライドなどについてだ(リヴェンデルが子乗せキャリアを付けるためにデザインした自転車で、彼はサドルに跨ったままベリーやイチジクを摘んでは彼女に食べさせていた)。あるとき、彼は「自転車!」と書いている。「いずれは自分の生活に合っていて、美しく、愛着の持てる本当に良いものを手に入れる。基本的なことだ。」私がショールームに着いたとき、私の赤い”Nashbar”は壁に立てかけられていた。たくさんのリヴェンデルの中で、それは少しくすんで見え、私の記憶よりもずっと小さく目に映った。見れたことで私は嬉しくなった。それでも私が帰る前に、ピーターセンはブドウのような紫色の”Platypus”でブロック内をクルージングさせてくれた。自転車整備工場やアニスの香りが漂うレストランの脇を通り過ぎる。”Platypus”は俊敏で、かつパレードのフロートのように頑丈だった。「あのバイクなら一生乗り続けられるでしょう。」とピーターセンは言う。「そのフレームが50歳を迎えたとき、どんなに美しく見えるかを想像してごらんなさい。」

ーThe New Yorker 誌 : 2024年9月23日号の紙面にて掲載「Joy Ride 」より。
文:  Anna Wiener